料金をとって入浴させる銭湯は今昔物語に記述があることから
平安時代の京都にあった可能性あり、鎌倉時代には
確立されていたと考えられています。
奈良時代に、仏教の布教のために境内に湯屋を建てて
庶民に入浴の機会を与えていましたが、目的は布教でした。
奈良の東大寺などには今でも大湯屋などが残っており、当時の名残りをとどめています。
家々に浴室も町湯もなかった時代なので庶民にとってうれしい施しであったと
考えられ、平安時代の終わりには京都に銭湯の先がけともいえる湯屋が登場します。
時代が進むにつれ入浴を施す習慣は盛んになり、室町時代には富裕な家は
近所の人々に風呂をふるまう、風呂ふるまいの文化が生まれました。
庶民が利用する施設として銭湯が発達したのは江戸時代になってからで、
慶長見聞録には江戸で最初に銭湯を建てたのは伊勢与市という者だと記されています。
まだ城下町も整っていなかった頃ですが、それが慶長年間の終わりには
町ごとに風呂ありといわれるほど銭湯は広まりました。
初期の頃の銭湯は風呂屋と呼ばれた蒸し風呂と、湯屋といわれる浴槽に
入るものがあり、湯屋の方が好まれたために風呂屋はほとんどなくなりましたが
言葉としては使用されています。
入り方も関西は混浴が多く、江戸は関西より少ないとはいえ混浴は人気でした。
やがて男性の体を洗う湯女も登場し、湯女と混浴は風紀が乱れるということで
幕府から禁止令が出されたりしますが効き目はなく、湯女風呂を徹底的に取り締まることで
ようやく廃止となり、以後、銭湯は茶を飲んだり、囲碁・将棋を楽しむ社交場として
利用されるようになりました。
ですが、混浴についてはその後もたびたび禁止令が出されにもかかわらず
江戸末期まで続き、浴槽の中央に仕切りを取付けたり、男女の入浴日時を
分けたりという銭湯も現われましたが、実際に混浴がなくなったのは明治中頃です。